歴史
韓民族の歴史の舞台は満州と韓半島であった。
旧石器時代は約50万年前まで遡る。考古学的な成果によると、韓民族の形成は大きく見て北方系遊牧民族と南方系農耕民族の混融からなり、現在の韓国人の祖先は後期旧石器時代(4万年から1万年前)からだと推定している。
紀元前10世紀頃から青銅器時代に入り、最初の部族国家である古朝鮮が出現した。
このように始まった韓民族の歴史時代は高句麗·百濟·新羅の三国時代と、統一新羅時代、高麗·渤海の南北国時代、そして朝鮮時代と日帝強占期を経て今日の大韓民国に発展した。
19世紀後半期から韓国は対外的に日本をはじめとする帝国主義列強の侵略に立ち向かう一方、対内的には前近代的な社会体制を打ち破り、自主的な近代化を成し遂げようと努めた。
1880年から本格的な近代化政策が推進され、1890年代には下からの民衆運動である東学農民運動、都市を中心とした民主主義啓蒙運動である独立協会運動が繰り広げられた。とりわけ、1895年明成皇后が三浦梧楼駐韓日本公使などの日本人に殺害されたことをきっかけに日本の侵略に対抗する義兵が全国的に立ち起こった。
そして知識人を中心とした近代教育運動や啓蒙運動をも展開した。この時期はちょうど大韓帝国時代と重なる。1897年高宗は大韓帝国を樹立させ、皇権強化を基盤にしながら近代化政策を推進する一方で、対外的には勢力均衡政策による中立化政策を模索した。しかし、日清戦争と日露戦争により帝国主義国家に浮上した日本の侵略政策を根本的に打ち破ることができず、大韓帝国は1910年殖民地化を余儀なくされた。
義兵は激しく闘争し、悲憤して自決殉国する知識人が相次いだが、結局大韓帝国は1910年滅亡し、植民地化されることになった。
しかし、王朝の滅亡は「新民」の時代を開いた。1910年から1945年まで韓国の独立運動は民衆と知識人の手に委ねられていた。独立運動家たちは国境を越え、中国、ロシア、そしてアメリカに亡命して独立運動の基地を建設し、それぞれの立場で武力闘争と外交闘争を繰り広げた。このような活動は日帝植民当局の緻密な査察と監視網を潜り抜けて行われていたのであるが、この過程において多くの独立運動家たちが逮捕され、投獄された。
特に1919年3月1日、ソウルで始まった独立運動は全国に広がったのであるが、若い学生たちは直接描いた太極旗を持って「大韓独立万歳」を叫んだ。この独立運動に危機感を覚えた日帝当局は、軍隊と武装警官を動員し、一般の人々を逮捕したり、虐殺したりした。このような日帝の蛮行は、1923年9月日本の東京に発生した関東大震災の際における朝鮮人虐殺へと繋がった。
国外に亡命な独立運動家たちは、1919年中国上海に大韓民国臨時政府を建てた。大韓民国臨時政府は民主共和制を標榜した韓民族の代表機関であり、独立運動の指導機関であった。日帝強占期に韓国人は日帝の差別政策にも屈することなく、韓国の歴史と言語を守って武力闘争を展開して日帝支配機構に大きな打撃を与えた。
このような試練と抵抗の過程は結果的に韓国人の力量を強化させ、1945年以降、大韓民国樹立の土台となった。1948年8月15日大韓民国は上海臨時政府を受け継いで政府樹立を宣布し、民主主義の独立国家としての第一歩を踏み出した。
その後、大韓民国は1950年の6·25戦争(韓国戦争)によって莫大な人命と財産の被害を受けた。
しかし、戦争の廃虚から韓民族は、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げ、市民の力で民主社会を建設した。あらゆる国難を乗り越えてきた韓民族の力動性と民主主義の実践経験、そして祖国の近代化の欲求が一つになって成し遂げた成果である。
今日の大韓民国は、1988年のソウルオリンピックと2002年の韓日ワールドカップの共同開催を通して人類の和合と平和に寄与した。また、UNの一員として世界各地の紛争地域に平和維持軍を送って国際社会の緊張緩和に努め、地球上の飢餓や難民救護にも先立って人類の共存共栄に貢献している。